発達について考える。
心理学を勉強していると、エリクソンのライフサイクル論というのがよく出てきます。
人は、老年期まで心理的課題を抱えながら発達していくというものです。
青年期は、アイデンティティを模索する時期とされています。
少し言葉が難しいですけど…。
アイデンティティの達成とは、
①自己の多面性を含めつつも、自分はこの世にたった一人しかいない存在である。
②現実の社会集団に属して、自他ともに受け入れられている。
③現在・過去・未来という時間の中で、自分が連続している。
という、これらの自己の一貫性と時間的連続性の感覚を持っていること。
…らしいです。
①も③も気になるところではありますけど、わかりやすいのは②かな?
自分は、若いときにこの感覚が無さすぎましたね…。
でも、模索する時期なのだから、迷っても当たり前というか、全然構わない訳ですよね?
では、そのアイデンティティを獲得するにはどうすればいいのでしょう?
様々なアプローチがあるとは思うのですが、青年期には親に代わって友人が重要な役割を果たすようになるそうです。
友人関係が青年の社会化に及ぼす機能として、
①友人関係を通して社会的スキルを学習する「社会的スキルの学習機能」
②緊張や不安・孤独などの否定的感情を緩和してくれる「安定化機能」
③自己の行動や自己認知のモデルとなる「モデル機能」
が、あげられています。
これも固い表現だけど、個人的に的は外していない印象を持っています。
確かに、大切な友人からはこれらのことを受け取り、学ばせてもらったなと感じるからです。
アイデンティティを大学卒業時点で達成できている人は、4割程度という報告もあるようですし、獲得しては揺らぐということを生涯続けていくみたいです。
だから、今それが全然ない!という人も大丈夫だと思います。
これからゆっくり時間をかけて、自分を大切にしてくれる人と出会い、自分らしさのようなものを育てていけばいいと、個人的にはそう思います。
皆さんはどう感じたでしょうか?
(そもそも、読んでくれている人がいるのだろうか?…笑)
…という訳で、次回は遅すぎることはない!というテーマで、熱く語ろうと思います。笑
では!
症状は何を求めてる?
文章が分かりにくかったので、読みやすく分かりやすい形にして、再投稿します。
自分の症状は、何を求めているか?
それを、今回は考えてみたいと思います。
症状というと、切っても切り離せない厄介なもののようなイメージが付き纏いますね。
この症状さえ無ければ、もっと自由で楽に過ごせるのに、働くことすらままならないじゃないか…と、自分自身若い頃には常に危機感を抱いていました。
今でも、同じことを考えることがありますが、基本的には社交不安の症状が出てしまうこと自体、自然なことだと考えています。
その背景は人それぞれ違えど、自分にとって受け入れ難い苦しみがあったからだと思えるからです。
では、その症状を少しずつ和らげていくには何が有効だったのだろう?
それを掘り下げて、文章にしてみたいと思います。
自分の場合は、昔からの友人と遊び続けることで、少しずつ何年も時間をかけて社交不安の症状が回復していきました。
そこには、その友達との信頼関係があり、自分を自由に表現できる場があったように思います。
若い頃には、年上の人から「若いうちにいっぱい遊んでおけよ!」なんてアドバイスをよく貰ったものでしたが、社交不安の症状を抱える人にも同じことが言えると思います。
というか、個人的にはそう言いたい。
信頼できる人との自由なやりとりの中で、きっとありのままの自分らしく振る舞える時が来るだろうと。
…少し熱くなってしまいましたが、なんせ20年近く苦しんできたので、熱を込めずにはいられない訳です。笑
心理カウンセリングも、安心して語れる場を提供しながら、その人自身の持つ自己治癒力が働いてくることに期待する側面があるそうです。
ということは、方向性としては間違っていないと思いますし。
身近にいる信頼できそうな人との交流の中で、優しさを受け取り、少しずつこころの傷が癒えていき、ありのままの自分らしく生きられるようになっていくという、この流れ…。
今できる範囲のことでいいので、試してみていただけたらなと思います。
(なんとなく考えてもらえるだけでも嬉しいですね)
結局、読みにくい文章になってしまった気がしますが、今日はこのくらいにしておきます。笑
溜まり場
この言葉が、毎回気になって仕方がない。
というのも、自分が人間関係を学ぶことができたのも、この場所があったからです。
兵庫県で一人暮らしをしていた部屋、地元の友達の家、近くの24時間営業のゲームセンターで、ひたすら友達と遊び続けたのを思い出します。
今は、なかなか無いんですよね、そういう場所。
個人的には、あらゆる場所で、「あっ、自分はここにいてもいいんだな。」って感じたい。
ありのままの状態で。
人から大切にされて。
そうなれた時には、きっと社交不安の症状は無くなってますよね?
つまりは、人との信頼関係になるのかな?…。
それを得られた時に、意識にのぼってきていた不安な気持ちが無意識に帰り、穏やかな生活ができるのではないか?という仮説。
鬼滅の刃の話の展開にも、少し似てるような気がしますね。
曖昧な表現にはなりますが、よければ試してみてほしいなと思います。
自分の求めているもの。
社交不安について、ほとんど書きたいことは書けた気がするので。
たまには個人的なことでも書こうかなと思います。
今現在、スローペースでミニマリストを目指しています。笑
というのも、このままいろんなモノに手を出し続けていたら、本物に欲しいものが手に入らないのではないか?と、気付いたからです。
今までは、「仕事だけではストレスが溜まるから、いろんな趣味を持ったほうがいい。」という親の言葉に影響を受け、バイクやロードバイク、ドラムなど、あらゆるものに手を出してきたのですが、長続きせず…。笑
その完成度も低いところで留まっていました。
今は、社交不安の克服と身近な友人のメンタルを守るため(自分が一番病んでる気がするけど…笑)心理学を勉強中なので、趣味はこれだけで充分だと判断したわけです。
それじゃあ、本当に欲しいものって何でしょう?
…自分でも、分かりません!笑
でも、いろんなものを捨てていったときに見えてくる気がするんですよね。
あくまで予想ですが、他のミニマリストの方と同じように、シンプルな人付き合いがしたくなるんじゃないかな?と思っています。
利害関係の伴う職場と、家との往復だけでは物足りないですし。
友達はみんな結婚してしまったので、遊ぶにしても3ヵ月に1回、3時間程度だし。
(愚痴みたいになってきました)
そう考えると、あとは恋愛しかないのだろうか?…。
苦手分野だし、そもそも恋愛してなくても人前でドキドキしっ放しなんだけど…。笑
まぁ何にせよ、シンプルな生活には憧れがあるので、どんな答えが待っていたとしても構いません。
歩み続けるのみ!
という訳で、また何か変化が出てきたら、報告したいと思います。
では!
光と影。
タイトルは大げさですが、漠然と考えてみたいと思います。笑
どんなものにも、光と影があるという考え方ですね。
これを「心理カウンセリング序説」という大学の授業で学びました。
怪しい宗教に入会してる訳ではないので、ご安心ください。笑
自分もこの考え方は、的を得ていそうだなと思うのですが、それなら社交不安になったメリットは何なんだろう?と考えたりする訳なんですよね。
例えば、人間関係で傷つきすぎて死にかけたとしましょう。
(今週の自分が、少しそんな状態でしたね。笑)
そうしたら、同じ想いを他の人にはさせないという優しさが身についていそうですね。
その姿勢が、後の人間関係において、人との優しくて深い関係性に繋がるような感じがします。
例えば、今現在親しく話せる友人がいないと思っている人がいても、実は人に優しく接することができる力を、すでに持ち合わせているような感じがしますね。
あとは、人からどう見られるか、常に気を張り続けるアンテナ問題。
このアンテナが働き続けることが、かなりの苦痛になるのですが、このアンテナが人の優しさを探し求めるアンテナにもなり得て、人生を豊かなものにしていく可能性を秘めている気もします。
(またしても、自己流の考えですが…)
きっと、人の優しさを敏感にキャッチし、そのありがたさを深く感じることができるでしょう。
そうやって、そのアンテナが少しずつ落ちつきを取り戻し、収束に向かっていくような感じもしますね。
他にも、このアンテナは自分らしくありのままに振る舞える状態に戻るための、道しるべの役割も持っているように思います。
一度、困難なことにぶつかったら、この出来事の光となる部分はどういったことなんだろう?と考えてみるのもいいかもしれません。
それくらい、どんな物事にも良い部分と悪い部分が常に両立しているような気がします。
適応について考える。
今回は、心理学の勉強不足がさらに露呈してしまいそうですが…。
適応障害っていう言葉をイメージしてみます。
この言葉を聞くと、単純に自分もそうだろうなと感じる訳です。
社会や、あらゆる環境にうまく適応できてないなっていう感じでね。
そもそも、強い不安に絶えず襲われるのだから、目の前の状況に慣れが生じるはずがないでしょ?と思ったりする訳です。
馴化抵抗っていう言葉もあるのですが、やはり環境に対する慣れ(馴化)が起きにくくなる状態というのは存在するらしいです。
じゃあ、自分が環境に慣れていくにはどうしたらいいんだろう?
イメージしてみる…。笑
(割と自己流な感じですみません。)
脳(こころ)の働きが大事な気がするな。
不安が強い状態のときには、慣れは生じないとなると、やはりまずは薬で不安を抑えることが必要かもしれない…。
笑い?
笑うことは適応的な行為だと思うから、信頼できる人と笑いながら過ごす時間が必要な気がするな…。
こんな感じでしょうか?笑
以前、大学で「心理臨床とイメージ」という科目をとっていて、こころを考えるうえでイメージっていうのはとても大事なんだと気付かされたので、割とそれを自分は多用します。
この授業の中で、箱庭療法やMSSM療法などの、遊びからこころの癒しが始まるものを学んだのですが、やはりそこにもセラピストの存在(信頼できる相手や環境)が必要だったと思うので…。
「信頼できる人との楽しい会話」
シンプルにこれだけでも、こころの癒しや適応に繋がっていきそうな気がしますね。
ユングは、症状を次なる次元の成長に至る途上の不適応だと考えたそうです。
そう考えると、症状が起きてしまうことも、適応できないことも、辛いことではあるのですが、どこか自然なことのようにも思えるし、可能性を含んだもののように思えたりもします。
今回の話は難しすぎたな…。笑
何か少しでも、社交不安を考えるきっかけになってくれるといいなと思います。
では!
あまり詳しくはないけども…。
カウンセリングって、人が抱えきれない大きすぎる不安を、その人が抱えられるサイズに小さくして返してあげるような効果があるらしい。
これって、なるほどなと個人的に思う訳ですよ。
赤ちゃんをあやす行為や、友達同士の悩み相談なんかも、これに似ている気がしてね。
自分が書いてるこのブログも、そんなことがしたいのかもしれない。
学生時代に、人間関係でネチネチした悪口を言われ続けた自分は、親にこの役割を求めていたけど、あまり親身になってもらえずに、こころの守りが崩れていったのを覚えている。
だから、そういう意味でも人に悩みを相談するのって、すごく大事なことのように思うんですよね。
悩みを相談して、それを人に受けとってもらい、少し小さくして返してもらうような、この流れ。
もちろん社交不安だと、それだけではどうにもならないほど大きな不安に、一瞬で襲われることも多いと思うのだけど。
そういう状態を少しずつ改善していくのにも、この一連の流れが必要なんじゃないかな?って感じています。
という訳で、今抱えてる仕事のストレスも、誰かに話して小さくしてほしい訳なんですが…。
目の前には、家で飼っている猫しかいません。笑
完全に、朝ご飯だけを待っています。笑
まぁそんな存在でも癒されたりする訳だし、これを人間に置き換えるなら、何気ない会話や笑顔、あいさつになるんでしょうかね?
そういったところから、少しずつ癒やしの流れに乗っていけることに期待しています。